- 骨格標本と歴史家の仕事
- 多言語作品における記憶の語り
- 次の世代にどう伝えるか

骨格標本と歴史家の仕事
――この映画では、実に多様な表現手法が用いられています。当時の映像や写真などとともに、当時の証言を朗読する場面、現在のひとたちが過去を回想し、証言する場面、それから演技者、俳優による再現もありました。さらにそこに紙芝居が加わり、それ以外でも画面外の語り手によるボイスオーバーもある。これは表現方法が多様であるということだけではなく、出来事があった当時の記録、それから当時の人々が事後的に回想していること、それから現在の時間から当時の記録を朗読すること、現在の時間に作り直した再現の場面など、この映画がじつにさまざまな時間を組み合わせていることが見えてくると思います。そのように考えると、最後の博物館の場面に出てくる恐竜の骨格標本が、ある意味でこの映画総体の比喩になっていると思われました。つまり、個体と全体との関係です。個体というものを、個別の島や、映画に登場した個別的な戦争体験を指すと考えると、この映画じたいがあの骨格標本のように作られているのではないか、と。化石自身は過去の地層にあるものですけれども、それを掘り起こして標本にしていくのは、私たちの現在の営みです。同じような意味で、戦争体験は過去にあった出来事であると同時に、今それを想起したり、逆に忘れたり忘れようとしたりする、私たちによっても作られている出来事でもある。このように捉えると、恐竜の骨格標本は空間的にも時間的にも、この映画にとって重要なモチーフなのではないかと映画を見ながら感じました。
廖: 映画の上映後、ある若い観客の方にこういうことを言われたことがあります。自分の祖母はかつて「慰安婦」だった。しかも彼女は自身の経験を公にしなかった「慰安婦」だった。祖母は被害者なのに、私の家族全員が祖母のことを「恥」だと思っていた、そのことを自分は理解ができない、と。そこから戦争につなげていえば、台湾拓殖会社1 は貿易関係の業務のかたわらで、「慰安婦」のビジネスを立ち上げていた。拓殖会社はそうしたことを問いつめられてはいないのに、被害の当事者は自分の家族から「恥」とみなされ、ある種の暴力の中に置き去りにされていた。それをどう考えればいいのか。
最後の骨格標本の場面で私が伝えたかったのは、その場所は実際に台湾拓殖会社の資料が発見された歴史の現場であるにもかかわらず、会社の戦争責任については問われておらず、いまは恐竜の標本が展示されている 2。それとは対照的に、「慰安婦」についての資料館はいまだに決まった場所がなく、予算の関係でいつまで続くのか分からない状況にある。そうしたナショナル・ヒストリーの問題点を、この骨格標本の問題は示唆しています。
藍: 私の研究に関連させて言うと、私たちは歴史のほんの一部しか手に入れることができない。その一部の手に入ったものからでしか、私たちは全体をイメージできないんですね。私の研究は台湾人の海外における戦争経験ですが、それについても似たようなことが言えます。今回の作品を通して私は、その研究テーマをめぐって、東南アジアにどんなパーツが転がっていたのかを知り、さらに深い理解ができるようになったわけです。
戦争の全体、戦争の全貌を知ることはそもそも不可能です。わたしたちはパーツとパーツを通してしか知ることができない。自分が知っているパーツ、他人が持っていたパーツ、それらのパーツとパーツとの間にどんな関連があるのかを考えることによって、ようやく戦争の全貌を、その中で起こった出来事を、少しずつですが、知ることができるのです。
多言語作品における記憶の語り
――今回のドキュメンタリーでは、ひとくちに中国語といっても、とてもいろいろな中国語が出てきます。福建語も一つではない。そこに日本語、さまざまな英語、マレーシアの現地の言葉も入って来ます。その意味で『島から島へ』はまさに多言語的な作品だと思うのですが、その言葉によって引き出されるものも変わってくるのかな、と感じる場面がありました。作品の中には、中国語の話者である私にも聞きとれなかった場面がいくつかありました。言葉の困難、あるいは取材の際に、とても重要ではあるけれど言葉がうまく通じないという場面をどのように編集したかなど、製作過程における言語の問題についてお聞きしたいです。
廖: まず言語というのは、実は記憶だけではなく、成長している間に感じた様々な思いも含んでいます。マレーシアの多言語社会で育った私は子供の頃の記憶をしゃべるとき、福州、福建省の北の福州の言語を私は使います。社会について批判したりするときはマンダリン、国際ニュースに自分の考えを述べるときは英語が一番使いやすい。しかし英語と言っても、実は英語を使うとき、シンガポールの人たちに比べると自分は下手ではないか、みたいな感情も同時に抱いているんです。言語というのは、その記憶とも深く関連しているし、その言語を使う時の当事者も実は様々な感情を同時に抱えているわけです。
作中に出てくる台湾籍旧日本兵の方(ヤン・フーチェンさん)とは当初、マンダリンでやりとりしていました。その後彼は、私のマンダリンに東南アジア訛りが入っているのに気づいて、私とは喋らなくなってしまった。彼が若かった頃、旧日本軍時代の記憶を聞き出すためには、私のマンダリンでは物足りない。そこで日本語を使うことにし、台湾に留学している日本人の女性で、旧軍人の家系に育った方に来てもらったんです。すると彼は、若い孫世代の女性に対して、まるで彼女の祖父になったように、いろいろ自分のことを語り始めたんですね。そもそも台湾籍旧日本兵の方は、マンダリンを使うことに違和感があるひとが多いです。国民党が台湾に入ってきた後、義務教育で押しつけられた言語なので。そのため、マンダリンで自分の戦前、あるいは日本統治時代の経験を語ることに拒否反応が起こるのです。
――廖監督は昨日のトークセッション3 で、マレーシアでは「あなたは台湾から来たひと」、台湾では「あなたはマレーシアから来たひと」と、いずれでも外部のひとという扱いを受ける、とお話しされていました。でも、証言を聞き出すためには信頼関係がいちばん大事ですよね。取材される側からすれば、目の前の相手がどんな編集をするか分からない、ひょっとしたら自分の「恥」がさらされてしまうかもしれない、という思いもあるはずです。『島から島へ』の製作期間は4年間だそうですが、私の知人の研究者の経験から比べると決して長いとはいえないところもあると思うんです。取材の過程で監督は、証言をなさった方たちとの信頼関係をどう作っていったのでしょうか。
廖: 台湾で取材を行うときは、まず「身元」から確認されます。「あなたは中華民国派か台湾派か?」。そういうとき私はずるをして、「マレーシア人です」と言います。そうやって距離を縮めようとはしていました。
今回取材の対象は6~7割位はよく取材される方なんですが、いままでその方々は「被害者」の立場から取材されていました。事前準備としては、映像資料・文字資料を集めて精読し、年代も一通りすべて確認したうえで取材に臨みました。でも、映画でもお分かりかと思いますが、今回取材した方々は自分で人を殺めた経験や、聞いている側に悪い印象を与えるような証言は基本的にしていません。
歴史学者は取材の際に「歴史の事実」を聞き出そうとする傾向があるように感じます。ですが、私が見たいのは、そのひとが自分の記憶とどう向き合っているかです。私は、取材の際に写真を見せます。実際にご本人が行ったことのある場所の写真を見せるのです。それを目にしたとき、ご本人の記憶のメカニズムがどのように動き始めるのか、どんなリアクションをするかに私は注目します。たとえば旧日本兵を取材した際、マイナスの印象につながるような話題になると、「いまの話は人づてに聞いたことだ」と急に態度が変わることがある。それを語る表情にも明らかな変化が見られます。
私自身は映画監督で、法廷の審判ではありません。監督である私は、ひとが記憶について語るとき、その記憶がいかに歪んだかたちで出てくるのか、そのような記憶を語るときそのひとには、どんな身体の変化があらわれるかを映像で記録したいと思っています。また、撮影のときに娘さんや孫世代の方に協力してもらうのは、世代を跨いだ関係性の中で、記憶がいかに語られるかを見たいからでもあります。作品の中には、藍先生のお母さんにも登場してもらっていますが、そのときの取材では、先生にも傍にいていただきました。この作品が取り上げたような記憶を語る際には、自分の「次の世代」も近くにいてくれると、語り手は安心感を持って語れるし、応援されながら語っているかのような感情を得られるのです。
藍: 本人にとって語りにくい記憶を語ってもらう作業になるわけです。語りにくい記憶だからこそ防衛反応が出て来る。もちろん信頼関係を作ることは難しいです。その点で、廖監督が取材する際の状況や環境への配慮には、私もいつも感心しています。取材される方が安心して語ることができるように、家族に横にいてもらったり、家族と「対話」するような状況を作り出したりしてくれます。話題が話題ですから、家族の支えはとても重要です。家族と世代を跨いだ「対話」という状況を作り、信頼関係を築きながら取材するという行き方は、素晴らしい手法だと思っています。
次の世代にどう伝えるか
――私自身映像作品を作る中で、「若い世代にどう伝えるか」という点で、いろいろな手法を試みるのですが、『島から島へ』には、さまざまな手法で語り口を変えながら伝えようという工夫が随所に見られます。たとえば私であれば一つの番組は一つのテーマで、というやり方に慣れてしまっている部分があるのですが、この4時間50分の映画にはほんとうに多くの話題が盛り込まれているのに、見事に作品としての統一感を持っている。それは、作品の中に一つの通奏低音というか、監督の世界観とでも言うべきものが明確に存在しているからではないかと思いました。マレーシアでの検閲の話題も気になります。監督の作品はマレーシアではほとんど上映禁止になっているそうですが、そうした状況をどのように乗り越えておられるのかをうかがいたいです。
廖: マレーシアには厳しい検閲制度がまだ残っています。『島から島へ』以前に私が作ってきた作品のうち、7~8本は検閲で問題にされました。わざと法律を破ろうとしたのではないですし、自分の祖父に取材した内容なので、政治に触れたつもりはありませんでした。でも、それが「政治的」と見なされて問題にされたことが何度かありました。自分の作品を劇場で上映する際にも、私服の警察官が来ていることがあります。どんな観客が来ているかをチェックするためです。でも、私にとってそれはとても示唆に富む経験でした。映画が単なる芸術、アートではなく、何かしらパワーを持つものである、と確信できたからです。
私の「世界観」という話があったので、中学時代の経験を話したいと思います。歴史の授業時間に、先生は教科書に則って授業をしてくれていたのですが、しかし、彼は教科書の内容を本気では信じていないようで、皮肉を込めて「こんな歴史を本気で信じているの?」と生徒たちに言うこともあったんです。かなりの反骨精神の持ち主だった私は、では先生、ほんとうの歴史はどうだったんですか? と聞いたのですが、その先生は話してくれなかった。しつこく聞こうとしたら、こんどは怒られました(笑)。
私は祖母に育てられました。彼女の夫、つまり私の祖父は父が2歳のときに亡くなりました。彼は抗日運動への参加を契機にマラヤ共産党に入党し、その後、独立戦争の中でイギリス軍との戦闘により命を落としました。祖父の死体を確認する際に呼ばれた祖母は、これは自分の家族ではない、とその場で否定したそうです。いま考えると、このとき祖母の心にトラウマが刻まれていたのだろうと思います。
祖母はいつも憂鬱な表情をしていました。祖父について私に語ることもありませんでした。そういう経験があったので、いつもかすかに、過去には何かがあったはずだと思っていました。しかし、歴史の先生に聞こうとしても答えてはくれなかった。そういう環境の中では、自力で答えをあれこれと探さなければならない。その中で思ったことは、いわゆる「真相」とは、つねに断片的なものでしかない。歴史のすべてを知ることは永遠にできない、ということです。さきほど世界観と言われて思い出したのは、こうした中学校の歴史の先生との経験でした。もっと知りたい、もっと何かないのか、という気持ちはいまでもあります。逆に、真相の解釈は一つしかないと信じていれば、ひとはずっと気楽に生きることができる。一つの答えを見付けて、それを信じ込もうとすることの方がはるかに楽なんです。
――先ほどもお話がありましたが、『島から島へ』の中には、証言の際に若い世代が同席している場面がたくさん出てきます。そのような若い方たち、たぶん私と同世代の方だと思うのですが、自分の大事なひとが話しづらいことを話している様子を見て、まるで過去の瘡蓋を剥がされている様子を目の当たりにしているような感覚になったのかもしれない、と思いました。取材の場に居合わせた若い世代の方がどんな反応をしていたか、カメラを向けながら感じたことを教えてください。
廖: マレーシアの方々、また、つい先日まで沖縄で取材をしていたのですが、沖縄の方々には、自分の経験を次の世代に伝えたいという気持ちがあると感じました。台湾では少し違います。おそらく白色テロ時代があったからだと思いますが、その時代を経験した人たちは、自分の経験を孫たちに伝えることには消極的です。
藍先生と一緒に台湾でワークショップを企画したとき、高校生たちに家に残された自分の家族、あるいは上の世代の第二次世界大戦にかんする写真を探してもらったところ、自分の曾祖父の写真を持って来た生徒がいました。これから南洋に行く、というその日に撮影された写真でした。自分の家族にその話を聞こうとしても、南洋にはいたけれど、何をしていたかはわからないという答えしか返ってこなかったそうです。その彼が『島から島へ』を見たあと、泣きながら私のところにやってきました。曾祖父は軍夫だったとは聞いたけれど、なぜ軍夫なのに銃を手にしていたのか、いったい曾祖父は戦争中何をしていたのか……。彼は戸惑ったような表情をしていました。
私はこうした反応が重要なのだと思っています。映画を見て、自分の中の何かが動き始め、上の世代の話を知ろうとする。まさにこの感情から、自分が知らない世代とつながる可能性が湧いてくる。もちろん、彼の曾祖父が何をしたかという真相は知ることはできないのですが、こうした繋がりの可能性が生まれたこと自体が、とても素晴らしいことだと私は思っています。ですから、『島から島へ』については、映画を見るだけでなく、その後のフォローをセットすることが重要だと思っています。映画を見た若い世代の中で湧きあがってきた感情との向き合い方や、そこから何かの答えを見つけ出したいという発想が出てきたことは、私にとって成功だったのではないかと思っています。
――個人の歴史記憶と国家の歴史叙述の関係性を真剣に考えなければならない、という監督の考え方は私にも大きく響きました。映画の中には、日本時代の規範や過去の日本の存在がかえって深くなってしまっている方が登場する一方で、国ではなく、相手を個人として見つめていこうとする方も出てきて、決して単純ではないけれど、そうした両方の声を映画の中に刻み込んでいく監督のメッセージは大切だと思いました。私自身もこうした関係性の問題を真剣に考えたいのですが、表現の場面で、とにかくスピードが求められてしまう現状があります。わかりやすい言葉に煽動されやすい傾向もある。ですが、この複雑な問題を考えるとき、今回の作品の「長さ」はやはり必要だったと思います。この長尺はある意味で観客に対する挑戦状でもあると思うのですが、表現する立場、あるいは表現を受け取る立場で個人と国家の複雑な関係性をどう考えればよいのか、お考えがあったらお聞きしたいです。
廖: 私にもこれといった答えはないです。ないのですが、ときどき「いま私がやっていることは、ほんとうは台湾の文部省がやるべきことではないか?」と思うことはあります。義務教育の中で、「自分の国を大事にしよう」と語ることは、すでに人々の心にイデオロギーを植え付ける行為ですよね。
藍先生と一緒にワークショップを企画する際には、先ほど話したように高校生に参加してもらうのですが、高校生たちが歴史の複雑性を受け入れ、そのうえでさらに「他の歴史を知ろうとする」姿勢が見られることが、すごくうれしいです。
ワークショップの最後に、私はいつも問いかけます。「このワークショップを通じてみなさんは、歴史がいかに複雑なものかを知ったと思います。ですが、この教室ではみなさんはマジョリティだけれど、ここを出たらみなさんはマイノリティになってしまう。というのも、多くのひとはすでに教育を通じて、国家が育てたいバイアスを持ったひとになっているからです。もしここに100人のひとがいたとして、もしあなたが、たったひとりで99人のマジョリティを前にしたとき、異なる声を上げる勇気がありますか?」と。事実として戦争はあったわけですが、戦争が起きる前には、ほんとうは他の声が存在していたはずです。では、その場面であなただったら、いったいどんなメッセージを発しますか、と。この問いに答えてくれる生徒さんはいないですが……。
――実に勉強になる、そして、いろいろと頭で勉強になると同時に、心でほぐしていかないといけないことを多く受け取ったインタビューでした。私たち自身も研究者であったり表現者であったりするわけですが、自分の仕事を通じて、その次の世代にどう伝えていくのかということを意識していかないといけないし、過去をどう伝えるということを超えて、何をどう伝えるか、そして伝えていった後、ヒストリカル・ワークショップのようなフォローをして、受け手の側をさらにあたたかく育てていくということを考えていかないといけないと感じました。ありがとうございました。 【了】
2025年10月26日(日)13:30~17:30 早稲田大学早稲田キャンパスにて
[聞き手]横濱雄二、呉世宗、川口隆行、李文茹、渡辺考
[参加者]赤松未子、大川史織、樫本由貴、魏永珍、北﨑花那子、高榮蘭、五味渕典嗣、鈴木玲子、副田賢二、Tash Julian Noa、朴恩斌、渡辺直紀
[通訳]李文茹 [中国語版トランスクリプト作成]魏永珍、劉榕シン[構成]五味渕典嗣
(2025年12月24日公開)