•  本プロジェクトでは、各ジャンルで「戦争」をテーマに問題提起的な創作活動を展開されている実作者・表現者の方々に連続インタビューを行っていきます。その最初のゲストとして、『女の子たち風船爆弾をつくる』(文藝春秋、2024年)の著者・小林エリカさんにお話をうかがいました。
  • 史実とフィクション、リサーチと聞き書きの「ハイブリッド」
  • 「わたしたち」から見えること、見えなくなること
  • あえて「危うさ」に触れる


史実とフィクション、リサーチと聞き書きの「ハイブリッド」

小林 これまでずっと核や放射能の「史実」をテーマにフィクションを持ち込むという作業をやってきて、『トリニティ、トリニティ、トリニティ』(集英社、2019年)などを書いていくうちに、その「史実」をどうやってフィクションにしていくかを悩むというか、どうしたらよいのかということはずっと思っていました。そのときに、キム・スムさんの『ひとり』と、アレクシエーヴィチの『チェルノブイリの祈り』(松本妙子訳、岩波書店、1998年)などの作品、そしてジュリー・オオツカさんの『屋根裏の仏さま』(岩本正恵・小竹由美子訳、新潮社、2016年)、この3つに出会えたことがほんとうに大きかったです。キム・スムさんはじめ、証言をとても大事に扱って、そのうえでフィクションを立ちあげていくということをなさっている。実際の出来事を大事にしながらフィクションも大事にするという方法というか、現実に起きていることを忠実にたどりながらあえて歪めたりせず、でもフィクションという構造で書くという作品と出会えたことが大きかった。

 でも、キム・スムさんもアレクシエーヴィチもジュリー・オオツカも、視点が弱い立場の側にある作品ですよね。今回風船爆弾を作ったという側を描くとき、もちろん少女という弱い立場ではあるけれど、同時に占領をしたり、強い立場で加害に加担してしまう側の人間でもある。いったい自分はどういう主語を取れるのかはすごく悩みました。旧日本軍の従軍慰安婦とか、チェルノブイリの被害者とか、戦争花嫁といった人びとを書く同じ行き方で私は書くことができない、というか。そこで悩んで、「わたし」「わたしたち」というふたつの主語を見つけられるまで、すごく時間がかかりました。

――大量の脚注をふくめ、この小説の執筆は文字資料をはじめとする綿密な調査をもとに書かれたことがよく伝わってきます。また、聞き書きの実践は、アレクシエーヴィチが『戦争は女の顔をしていない』(三浦みどり訳、群像社、2008年)で用いた方法であるし、森崎和江2 や石牟礼道子3 が駆使した方法でもあるわけです。小林さんの『女の子たち風船爆弾をつくる』もこうした「聞き書き」の文学につながる実践だと思うのですが、小林さんご自身は、「聞き書き」という方法をどう考えておられますか。

小林 石牟礼さんや森崎さんの作品はほんとうにすごいと思っていて、もちろんすごく影響も受けています。それこそアレクシエーヴィチの作品もなければできなかったと思うんですけど、実のところ私、聞き書きをそれほどしていなくて。例えば瀬尾夏美4 さんのように、現場に入ってずっと聞き書きをやってらっしゃる方を見ていると、私のものは「聞き書き」というには申し訳ないというか、そんな気持ちになることがあります。そもそも風船爆弾については、もうお話をうかがえる方がほとんど残っていなくて、「聞き書き文学」と言っていいのだろうか・・・・・・と。

 でも、たしかに、半分は聞き書き、半分は資料という形ではあるんです。実はすごく重要だったのが、学園とか関係者の方に問い合わせをしたときに渡していただいた資料や卒業文集とかでした。ですから、私自身が聞き書きをしたというより、過去のどなたかが聞き書きしてくださったものを誰かが残してくださっていた、それが私に手渡されたということ。それが重要で、 私自身が何かを聞いたというより、かつて誰かが大事だと思って聞いて書いてくださったことの集積を、とりあえず私が責任を持ってここにひとつの形にしてまとめました、というのが一番自分の感覚に近いです。そうした資料は――もちろん「文集」みたいになっているものもあるんですけれど、学内でしか保存されていない紙一枚のようなものもありましたし――国会図書館などにも入っているわけではないので、そうした資料に出会わせてもらったことの幸運や、それをこうして手渡してくださった方々の尽力が大きかったとすごく思います。

風船爆弾そのものについては、全国規模だったためそれなりの数の資料があります。けれど、東京宝塚劇場での風船爆弾づくりについては、自分で調べていったとき、唯一のまとまった資料が南村玲衣さんが私家版で出された一冊(『風船爆弾 青春のひとこま:女子動員学徒が調べた記録』2000年)だけだったことを思うと、今後どなたかが同じテーマで研究したいという時に困るんじゃないか、と思いました。そう思ったら、「ここは私がやらねば」という使命感にもかられてしまいまして(笑)、大量の参考文献の脚注がつく形になりました。それから、お名前がふせられていてわからなかったのですが、卒業生座談会を記録してくださった方とか、これまでのひとりひとりの尽力、そうした方々への敬意を表したいというのも、逐一脚注を付けていくことを決めた理由でした。

 実際に小説を発表していったり、朗読歌劇を上演していく過程で、「実は、うちのおばあちゃんが東京宝塚劇場で風船爆弾づくりをしていました」と仰る方とも出会うことができたり、そこからまた聞き書きが始まっていったということもありました。実は本として刊行された後でも、お亡くなりになった方の家族を通じて、その方が遺したものを見せていただいたりということもありました。まさに資料と聞き書きの「ハイブリッド」という感じになっています。

 東京宝塚劇場での風船爆弾作りについては、自分で調べていったとき、唯一の資料が南村玲衣さんが私家版でお作りになった一冊(『風船爆弾 青春のひとこま:女子動員学徒が調べた記録』2000年)だけだったことを思うと、今後どなたかが同じテーマで研究したいという時に困るんじゃないか、と思いました。そう思ったら、「ここは私がやらねば」という使命感にもかられてしまいまして(笑)、大量の参考文献の脚注がつく形になりました。それから、お名前まではわからなかったんですが、その卒業生座談会を記録してくださった方とか、そうした方への敬意を表したいというのも、逐一脚注を付けていくことを決めた理由でした。

 実際に小説を発表していったり、朗読歌劇を上演していく過程で、「実は、うちのおばあちゃんが東京宝塚劇場で風船爆弾づくりをしていました」と仰る方とも出会うことができたり、そこからまた聞き書きが始まっていったということもありました。実は本として刊行された後でも、お亡くなりになった方の家族を通じて、その方が遺したものを見せていただいたりということもありました。まさに資料と聞き書きの「ハイブリッド」という感じになっています。

小林 確かに、新しい聞き書き文学というか、ハイブリッド文学という方法があるとすれば、もうちょっと色々な人たちが自由にできるかも知れないですね。今まで「聞き書き文学」と言うと、全部話を聞いた上で構成していくという考えが、私はどうしても思い浮かんでしまうので、「ハイブリッド」という言い方があれば、当事者がいなくなってしまうことで「じゃあ、もう終わり」にはならない形で、新しい表現が生まれる可能性が作れるかもしれないですね。

「わたしたち」から見えること、見えなくなること

――先ほど出てきた主語の問題ですが、この小説の「わたし」と「わたしたち」という言葉が、個の体験と、そうした体験の面的な広がりのどちらも体験させるものになっていて、ほんとうに興味深かったです。この仕掛けは、とくに戦時下の全体主義的な「わたしたち」のありようを浮かび上がらせる上でとても効いていると思うのですが、一方で、「国」という境界線を強固にしてしまう部分があるようにも思いました。例えば、戦時期の場面で出てくる「わたしたちの朝鮮」という表現は、女学校や宝塚の少女たちが思い浮かべる言葉ですよね。朝鮮に住む、あるいは朝鮮から移住してきて内地に住む「わたしたち」ではない。13節ぐらいから「わたしたち」という言葉は減ってきているのですが、17節の「わたしたちは連合国とサンフランシスコ講和条約を結ぶ」とか、占領終結を「わたしたちの国が、再びわたしたちのものになる」といったとき、「国」と「わたしたち」がイコールの関係になっている部分があるのではないか。そのときの「わたしたち」の範囲をどう捉えていらっしゃるのかが気になったんです。テクスト後半の「わたしたち」は明らかに範囲が狭まっているわけですが、主語は共通なので、あたかも同じ「わたしたち」が続いているようにも見えてしまう。このあたりの問題について、小林さんがどう考えていらっしゃるかうかがえると、考えるヒントをいただけるのかな、と。

小林 自分自身で作品の中に「わたしたちの朝鮮」みたいな言葉を書いてみたとき、当時の人たちってこういう感覚だったんだ、と改めて気づいたところはありました。日本が朝鮮を侵略して占領したということは勉強してきたはずだけど、私には想像が及んで来なかったところがあったように思うんです。でも、当時の人たちの「占領」とか「支配」とかという感覚をなかったことにして話を進めるというのは、何か違うよな、と。宝塚の少女たちが象徴的なのは、いまでいうと九州に出かけるみたいな感覚で当時の中国や朝鮮に行くわけですが、いざ行ってみたら、そちらの方が、食べ物も豊富だし、日本人というだけで優遇されるし、いい暮らしができてしまったりする。現地で公演をしたとき、舞台で現地の人たちを使っても一切名前や言葉を覚えない、覚えようとしない、結局そこにいる人たちやそこの文化が見えていない感覚とか、あ、これが「植民地」ってことなのか、と、私ははじめて気づいて戦慄しました。

 あと、この小説ですごく気をつけたのは、「誰が、何を、どうした」を明確にすることでした。日本語では「空襲があった」とか「原爆が投下された」と言うわけですが、空襲は津波みたいなものではなく、「誰が、何を思って、どうした」というものがあるはずで、誰かが主導権を持って選択してやったことを一個ずつ明らかにしていきたいという思いが強くありました。実際にそう書いてみると私自身初めて気づくこともあって、戦争は誰か偉いひとが勝手に決めたことが進んでいく、みたいな印象で理解していたのですけど、ひとつずつ「わたしたちの兵隊が占領する」「わたしたちの兵隊が爆撃する」ということを見ていくと、「わたしたち」と言ったときにすごく気持ちいい、というか、応援したくなってしまうとか。「わたし」「わたしたち」という主語、「誰が、何を、どうした」という二つの組み合わせを通じて、いまの「わたし」という存在が、「わたしたち」の歴史に対して、どんな責任を負っているのか、あえてこういう書き方をしてはっきりさせていきたいという思いはありました。「わたしたち」に含まれる人が責任を取るべき過去だと、私は考えています。

 でも、その「わたしたち」から省かれてしまう人たちがこれをどう読むんだろうというのはたしかに不安というか。まだ他言語に訳されていないので、日本の占領下にあった側の人たちがこのテクストをどう読んでもらえるか、どういう風に思うかを聞きたいと思っています。

あえて「危うさ」に触れる

――「わたし」「わたしたち」のところもそうなんですが、『女の子たち風船爆弾をつくる』では、「春が来る」「桜の花が咲いて散る」のように、同じ言葉が何度もくり返されるリフレインが多用されています。これらの表現は、この小説を散文詩のようなものへと結実させているともに、個人と出来事の関係をあらわす叙事の言葉としての強度を担保しているように感じました。こうした表現を用いた意図をお聞かせください。

小林 くり返される「春が来る、桜の花が咲いて散る」というのは、実は年号になっていて、それを数えていくと今何年なのかがわかるようになっています。最初は一九××年、と年号で書いていたんですけど、いちばん最後に全部年号は取ってしまって、なるべく年号を使わないように結構頑張りました。年号を通じて過去のいついつのことですよ、というのではない入り方をしたかったんです。最近、桜の花をテーマにした作品をよく作っているんですけど、桜の花って、毎年当たり前に咲いていて、その表象が持った意味みたいなことを知っていたとしても普通にきれいだな、と思うところもあるわけです。その桜が戦時下の空襲の最中も咲いていて、桜の実が落ちていたんだ、という当たり前のことが自分の中でも繋がっていなくて、まるで別世界のように思えていたところがあった。でも、当時の人たちも現在と同じように桜の花を見てきれいと思っていたんだろうな、ということを意識しながらくり返して使っていました。過去の出来事だけれど、現在の出来事としてもう一回立ち上げて聞いてもらいたい、という意図はありました。

 この小説を書く上では、朗読歌劇をやったことがすごく大きかったです。寺尾紗穂さんとこの『風船爆弾をつくる』の朗読歌劇5 をやる前に、青葉市子さんと寺尾紗穂さんとお二人で『わたしの「女工哀史」』(高井としを著、草土文化、1981年)と『女工哀史』(細井和喜蔵著、改造社、1925年)という二冊の本をテーマに朗読歌劇を作ったことがありました6 。『女工哀史』の本の一番最後に、かつて女工が歌っていた歌が採録されていて、その歌をもとに女工のストーリーを作りたいというご依頼をいただいたのですが、そのとき初めて自分のテクストを誰かに朗読して歌ってもらうというのを経験して、肉体を通した声になったときの説得力にはほんとうにびっくりしました。説明がいらないんですよね。その経験を通じて、装飾的に説明した部分は取ってもいいんだ、とわかったことが結構大きくて、それがきっかけになりました。

――これも小説の中でくり返される「男に生まれたかった、あるいは生まれたくなかった」という部分はすごく響いてくる言葉で、私もほんとうに読みながら共感しました。しかもそれが、戦争という時代の中でその思いがどこに結びついていくのか、というところがとても興味深かったです。ただその一方で、vimeoで拝見した朗読歌劇の『女の子たち風船爆弾をつくる』の方では、宝塚の少女たちのパートはあまりなかったですよね。そうすると、「日常を過ごす中でだんだん戦争に巻き込まれて行ってしまう少女たち」という印象が強くなったという印象を受けました。それから、「君が代」があまりにもきれいに歌われていたことも気になってしまって……。この小説が震災を媒介にして現在と重なりあうように書かれていたことは仕掛けとして非常に面白く読んだのですが、それが「君が代」のあの歌声の美しさと重なったとき、過去の抵抗の歴史まで一気に消えてしまうような感じがあって、「ちょっと危ういな」という印象を持ったことも事実なんですね。この点について、お考えをうかがえればと思うのですが。

小林 基本的に『光の子ども』(リトルモア、2013年)を書くときも『女の子たち風船爆弾をつくる』のときも、他の作品を書くときも一番注意しているのは「裁かない」ということです。アレクシエーヴィチが「裁くのは時代にまかせましょう。時代は公平です、でもそれは近い時代ではなく、わたしたちがいなくなった遠い時代。わたしたちの愛着のない時代です。」と書いていたことが心の支えというか。「無垢」というふうにも、「加害者」としても書かないように注意を払おうと思っていました。これまでの歴史をふり返ったとき、ひめゆり学徒隊にしても、被爆者にしても、女性たちが「かわいそうな存在」として持ち上げられていく、そんなイメージを付けられてきた歴史があったと思うんですね。戦時期の日劇のポスターとかを見ていくと、宝塚歌劇のような少女たちをアイコンとして消費することがくり返されてきたことに同じ女性として正直憤慨するところはあったわけですが。

 朗読歌劇の「君が代」は浮(ぶい)さんという方に歌っていただいたんですけど、ほんとうに上手すぎて、私たちも聞き入ってしまうぐらいきれいでした。でも、それが重要なのかな、と私は思ったんです。私自身「君が代」が美しいとこれまでは思ったことがなかったですし、どちらかといえば否定的な気持ちで聞いていたのですが、浮さんの「君が代」を聞いたときに私はすっかり魅了されてしまって。だからこそ、なるほど当時の人たちも歌で高揚したし、だからこそ歌で戦争に加担してしまうんだな、ということを私は体感として感じることができた。『女の子たち風船爆弾をつくる』を書いていく中で、「海ゆかば」というのもたくさん出てくるわけです。当時の女の子たちがみな泣いたとか、シスターは「海ゆかば」をキリスト教の聖歌に重ねていたという話もあったりして。でも、私は全然ピンとこなかったというか、「本当に?」という感じは正直ありました。でも、それを浮さんとか寺尾紗穂さんたちに歌ってもらったとき、なんかほんとうにすごい、と思って。これを聞いたら、泣いてしまうかもしれない、がんばろうってなってしまうだろうな、って。当時の歌には「爆弾くらいは手で受けよ」という歌詞なんかもあって「素手で? ジョークかよ!」って笑っていたのですが(笑)、そのぐらい歌の影響力が大きいし、気づいたらその歌を自分が口ずさんでしまっていたりして、ようやくそれがはじめて「怖い」と思えたところもありました。おっしゃる通りそれは「危うさ」に繋がるけれど、心底その歌に感動してしまうことを知ってこその怖さですよね。いくら頭では理解したつもりでも、「君が代」や「海ゆかば」7 が政治的に使われてきたものだということを了解していても、それでもなお実際の歌を聴いて思わず感動してしまう自分の気持ちがあるのだ、ということを踏まえないと、抵抗できないのかも、と私は思っているんです。そこは大事にしたいと考えています。

 放射能や核のことについてずっと書いていく中でも、なぜその危険さや恐ろしさをもっとアピールしないんですか、と言われたこともあります。でも、その「放射能」と言われるものに惹かれてしまう気持ちというか、見ようによっては不謹慎と言われるようなことについても、もっと真摯に考えていかないといけないんじゃないかという思いはあります。実際、ウランガラスってほんとうにきれいなんですよ。私自身もウランガラスを使った作品を作っていて、これよりもなお輝くラジウムをマリー・キュリーが「妖精の光」って呼びながら枕元に置いて寝ちゃうのもわかるかも、って。頭で考えて「これはこういう背景だから良くない」「危険だ」「恐ろしいものなんだ」と思考停止になって、その部分しか見ようとしなければ、全ては捉えられないと、私は思うんですね。放射性物質というものの「危険さ」と「美しさ」は同居する。

 例えば原爆についても、科学者たちがそれをつくりあげて「すごい」や「美しい」と感じた言葉を不謹慎だとなかったことにしてしまうと、人間の真の残酷さや欲望みたいなものが見えなくなってしまうのではないか、と私は考えています。私は自分自身が弱い人間だと思っているので、もしかしたら原爆実験の映像を見て、たとえ広島と長崎の惨状をどれほど知っていようとも、「この光すごくきれいだな」と見てしまう瞬間があるかもしれない。そのような自分の不謹慎さとか、貪欲さみたいなものを踏まえないと逆に、すぐにプロパガンダにのせられてしまうのではないか。だから、どれほど美しくても、きれいでも、それが危険だったり恐ろしいことを踏まえ、やっぱり私は違う、と言えるように自分自身がなりたいし、他のひとにもそうであってほしいと思うところがある。だから、本でもマンガでも、いわゆる不謹慎と言われるようなことまできちんと含めて、積極的に描いていきたいな、と思っている次第です。

――ちょっと射程の長い質問です。『空爆の日に会いましょう』(マガジンハウス、2002年)という作品を僕は出た時に買っているんですが、「とんでもない人がでてきたな」(笑)と。この本はアフガニスタン戦争のときに、自分がこの日本という場所で空爆をどこまで追体験できるのか、自分が難民になってホームレスになってみよう、難民になっている人たちの側に自分を置いて見て行こうという記録だった。でもこれは一方で、戦争と日本社会の距離感があった上での実践なのかな、とも思うんです。最近の学生たちを見ていると、「戦後日本」が前提としてきた「平和」のとらえ方がだいぶ変わってきているような気がするんですね。2000年代からの25年間というのは、ほぼ小林さんの創作の軌跡とも重なるわけですが、『空爆の日に会いましょう』から2011年の震災を経て、2025年の現在に至るまで、「戦争と社会」との関係の変化だけでなく、小林さん自身の創作の態度や方法、倫理観のようなものも変わってきたところがあったのではないかと思います。『女の子たち風船爆弾をつくる』を、初期の作品からふり返ったときにどう位置づけておられるか、聞かせてください。

小林 創作でつねに「戦争」を描いているのはなぜですか、とおたずねいただくことも多いんですが、自分でもすごく不思議ではあります。まず子どものときに、死んで消えてただなくなってしまう、ということがすごく怖いと思ったことが一つあります。それから、「戦争」って子どものころは「旧世代」のものというか、完全に過去のものだと思っていて。夏とかに戦争の話をテレビで見たりしながら、登場するのはおじいさんやおばあさんばかりだったから、昔の人がやっていたものだと信じていた時期があったんです。でも、湾岸戦争を見たときに、「え、今やっているの?」「現在進行形で戦争なんかやる人いるの?」とびっくりして。

 子どもの私は、戦争は、どこか自分とは全然別の人間、古い時代の、学問などもしていないような人間たちがやるものだ、という風に考えていたところがありました。けれど、後に、自分の父親の戦中の日記をたまたま発見して読んでみると、戦争中でも、学校行ってるよな、とか、めっちゃ勉強して、空襲の中でドイツ語までやっていて。なのにどうしてこんな人たちが戦争をするんだろうと。それまで自分の中で一線を引いていたものが崩れたというか、自分とは違う人たちがやっているものと思い込んでいたものがそうではないかも、いや自分もそうなってしまうかもと思ったときに、自分の中で本当に怖いと思ったし、「もっと知りたい」という気持ちが出てきた。私はわりと「やれ」と言われてしまうことを真面目に素直にやってしまうタイプなので、今回の『女の子たち風船爆弾をつくる』を書きながら、これは自分は頑張って作るな、何ならできない子を責めてしまうかもしれないな、とさえ思いました。すすんで国にも協力するだろう、と。でも、私は加害に加担したくない。真面目さや素直さ、誰かの役に立ちたいという気持ちを、そんな風に使われたくない。だから、できることなら、そのようになる前に止めたいな、という気持ちはつねにあるんです。ではどこだったら、いったいいつだったら止められるのかという、それを知りたい、という気持ちはずっとあって、書き続けているところはあります。

 いまは、あたりまえのように戦争が起きたり続いたりしているし、子どもたちにとっても「戦争が近い」という感触はあると思います。でも同時に、やっぱり「遠い」他人事みたいな感覚もあるんじゃないでしょうか。風船爆弾のことを書いていたとき、第二次世界大戦がヨーロッパではじまったことを知った宝塚歌劇の少女たちが、イギリスで空襲があったり毒ガス防護の訓練をしている様子を見て、「ああ、イギリスの人たちはかわいそうに。でも、わたしたちの日本は無事で良かった」と言っている記事を見たとき、ほんとうに戦慄しました。それからほどなくして日本中が空襲で焼け野原になるのですから。焼夷弾が自分の家に爆弾が落ちてくるまで、空襲というものがピンと来ないっていう感覚についても読んで、あり得るなとも、私は思いました。本当に自分の身に降りかかるまで、どうしても、他人事みたいになってしまう感覚。でも、それを自分事として、文章や映像やインスタレーションでどうやったら考えることができるんだろう、ということを模索していますし、これからも探してゆきたいです。【了】

  1. スヴェトラーナ・アレクサンドロヴナ・アレクシエーヴィチ。1948年、ソ連ウクライナ共和国で生まれる。父はベラルーシ人、母はウクライナ人。生後間もなく父の故郷ベラルーシに一家で移住。2015年に、第一作である『戦争は女の顔をしていない』(1985年)がノーベル文学賞を受賞した。著作に『ボタン穴から見た戦争』(1985年)、『アフガン帰還兵の証言』(1991年)、『チェルノブイリの祈り』(1997年)など。 ↩︎
  2. 森崎和江。1927年、朝鮮大邱に生まれる。詩人、作家。17歳で単身九州へ渡り、58年には筑豊の炭坑町に転居、『サークル村』を創刊。著作に、女性炭鉱労働者からの聞き書きをもとにした『まっくら』(理論社、1961年)、アジアで売春に従事した日本人女性を描いた『からゆきさん』(朝日新聞社、1976年)など。 ↩︎
  3. 石牟礼道子。1927年、熊本県天草郡に生まれる。詩人。作家。水俣病事件を描いた第一作『苦界浄土 わが水俣病』(講談社、1969年)が第1回大宅壮一ノンフィクション賞となるも辞退。1973年マグサイサイ賞、1993年『十六夜橋』(径書房、1992年)で紫式部文学賞、2001年度朝日賞を受賞。2002年、『はにかみの国――石牟礼道子全詩集』(石風社、2002年)で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。 ↩︎
  4. 瀬尾夏美。1988年東京都生まれ。アーティスト。2015年、仙台市で東北の記録・ドキュメンテーションを考えるためのコレクティブNOOKを立ち上げ、ダンサーや映像作家との共同制作や、記録や福祉に関わる公共施設やNPOなどとの協働による展覧会やワークショップの企画も行う。映画作品に、「二重のまち/交代地のうたを編む」(小森はるか+瀬尾夏美、2021年)。著作に、『あわいゆくころ――陸前高田、震災後を生きる』(晶文社、2019年)、『二重のまち/交代地のうた』(書肆侃侃房、2021年)。共著に『10年目の手記』(生きのびるブックス、2022年)。 ↩︎
  5. 作家・小林エリカと音楽家・寺尾紗穂による朗読歌劇『女の子たち風船爆弾をつくる』が、2023年6月19日に東京・銀座 王子ホールにて開催された。 ↩︎
  6. 作家・小林エリカと音楽家・寺尾紗穂、青葉市子により、女工の物語を題材にした朗読歌劇『女の子たち 紡ぐと織る/Girls Spinning and Weaving』が、2021年9月5日『隅田川怒涛』のプログラムとしてスカイツリー展望デッキより配信された。 ↩︎
  7. 「海ゆかば」は、国民精神総動員運動に呼応し、国民歌謡として信時潔によって作曲された。戦時体制下における戦意高揚・精神教化の歌であり、軍歌であった。賛美歌風の旋律から、準国歌として愛唱された。玉砕報道の鎮魂歌としても使用された。 ↩︎

2025年3月5日(水)14:30~17:45 早稲田大学早稲田キャンパスにて
[聞き手]川口隆行、副田賢二、中谷いずみ、渡邊英理(質問のみ参加)
[参加者]岡村幸宣、何雅琪、北﨑花那子、五味渕典嗣、朴恩斌、李文茹、渡辺考
[構成・注釈]五味渕典嗣、北﨑花那子
(2025年5月31日公開)