- 本プロジェクトでは、各ジャンルで「戦争」をテーマに問題提起的な創作活動を展開されている実作者・表現者の方々に連続インタビューを行っています。今回は、沖縄を拠点に活動する歌人であり、日本史・琉球史の研究者でもある屋良健一郎さんに、第26回現代短歌新人賞受賞作でもある歌集『KOZA』(ながらみ書房、2025年)に収録された作品をめぐってお話をうかがいました。
- 記事中で引用した『KOZA』の収録作品にはすべて掲載ページを付しています。
- 『KOZA』のモチーフ——「鳥」と「気まずさ」
- 実践としての「無知」
- 「大きな沖縄」と「小さな沖縄」、さらにその先へ

『KOZA』のモチーフ――「鳥」と「気まずさ」
――『KOZA』の短歌のモチーフについてお聞かせください。戦争や開発による破壊や変容が各所に刻印され、その痕跡が残存し続ける「陸」と異なり、「空」と「海」には記憶の痕跡が残り難いことが、歌集としての『KOZA』の表現戦略上において重要なことであると感じました。「空」と「海」からのざわめきを感受する「われ」の身体は、記憶の痕跡をめぐる感覚のオルタナティブ(そこに「実物」があるということに結びつけられた記憶から、「実物」の不在/消失こそを構成与件とする記憶へ)を志向しているようにも思えます。「空」と「海」の不可触の領域から、様々な音や感触が舞い落ち、「われ」の身体に突き刺さるというイメージの運動を感じたのですが、そこで用いられるエレメントとして頻出する「鳥」たちについてうかがいたいです。「ペンギン」「ペガサス」「天鼠」「海鳥」「アヒル」「シラサギ」「サシバ」、そして種別不明の「鳥」「群鳥」などの飛行体が多くの歌に登場し、重要な役割を担っています。それらは、「陸」「空」「海」を往還する運動の起点であると同時に、地上性に拘束され続ける「われ」の身体の分裂体であり、かつ攪乱者であるようにも思えます。「飛行」自体の持っているロマンティシズムのみには還元されない多層的な意味をそれらの「鳥」たちは抱えていると感じました。
屋良健一郎(以下、屋良) 確かに空とか鳥とかは多いかも知れないですね。「空」を意識するようになったのは県外に出たことが大きいかな、という気がしています。はっきり覚えているのは、大学で東京に行って帰省したとき、朝まで友達と遊んでいたんですね。その頃は実家が嘉手納基地のゲート2近くだったものですから、帰るときに嘉手納基地のそばを通るわけです。午前6時から7時の間だったと思うんですけど、軍用機のものすごい音がしたんです。そのとき、「こんな朝早くから」とびっくりして空を見上げたことを、はっきり覚えています。でも、それが初めてだったんです。それまでずっと聞いていた音のはずなのに、東京に出て、帰省して初めて気付かされた。これが短歌を作りはじめの頃の「空」に対する古い記憶としてあります。
AVの男女のようにあえぎつつ戦闘機と青空の乱交(『KOZA』33)
暴動の打撲焼け傷ひとつだに空に残っていない寂しさ (『KOZA』70)

もうひとつ、「海」とか「鳥」で言いますと、2010年に所属する短歌結社の雑誌である『心の花』1で、奥田亡羊2さんという先輩が中心となって企画した「肉体からたどる世界」という特集が組まれたんです。「肉体」をキーワードとして20首作ろうということで、当時の若手が中心となった特集なんですけど、そこに私も声をかけてもらったんです。そのとき、どう作ったらいいんだろう、とすごく迷ったんですよね。それまであまり「肉体」を意識したことはなかったし、スポーツもほとんどしませんから。それですごく苦しんだんですけど、では一回自然の中に身を置いてみようということで、その歌を作るために帰省して、沖縄のある洞窟に籠もったんです。寝泊まりまではしませんでしたが、朝早く、夜が明ける前から行って、午後くらいまで洞窟の中にしばらくいて、たまたま近くにあった海に出て、ということを何日間かやったんです。ずっと洞窟の中にいると、水が落ちる音や水に触ったときの感触に敏感になってきます。海を歩いたときにも、たくさんいろんなものが落ちていることに気づくんです。車やいろんなゴミも捨てられているんですけど、中に鳥の死骸や、誰かが捨てた鶏肉の頭の部分だけが落ちていたりする。魚の死骸も多かったです。それもすごく印象的で、海ってこんなに「死」で溢れているんだ、と。まるで「死」に囲まれているような感覚があって、そのときに作ったのが「浜辺を行けば」という連作なんですけど、この連作あたりから「死」を感じたり、意識したりするようになりました。「海」や「空」から何かを感じるようになったのは、たぶんこのときぐらいからだったと思います。
内臓をさらす海鳥食いかかる者のいかなる顔を見たのか(『KOZA』61)
――歌の作り方なんですが、屋良さんの作品は最初から完成形に近いかたちで作るものなのでしょうか。それとも、ある断片のようなアイディアがあって、それをあとでまとめるという作り方でしょうか。俳句を作る際に、友人から言われて私が意識していることなんですが、上五や中七など、パーツごとに、どこから作ったのかわかる俳句っていうのはあまり良くない。どこから作ったのかわからないで、一気にできたんだなという俳句の方がいい句の確率が高い。それはなぜかというと、一気にできた俳句の場合、作り手の内側に目指す「型」のようなものがあって、そこにパチッと言葉がはまっていく。これは作為的に作ったものより良い句になる、と。屋良さんの場合はどうでしょうか。
屋良 『KOZA』は2016年までの歌を収録したんですけど3、その頃は「すんなり生まれてくる歌」の方がいい歌だと思っていました。でもいまは、もちろんそういう歌もいいけど、この言葉を使いたくて、これを書きたくて、と作為的に生み出した歌の方が自分のなかでは「うまい」と思っているんですよ。でも、自分の中ではほんとうにこれっていい歌なのかな、「自分の歌」と言えるのかな、という思いがないわけではなくて、そういう違和感はあります。作為的な方が歌として整っているし、いいんじゃないかと思って歌を作るんですが、でもどこかで違和感がないわけではない、という感じですね。
――テーマやモチーフのことをもう少し聞かせてください。『KOZA』の「われ」は、沖縄尚学を応援する人、母や祖父母といった親族、ジョンやボブなど、固有名詞を与えられたアメリカ兵などの、観察する対象や「われ」と相対する他者に対して、常に気まずげです。この気まずさは、様々なフェイズで、居場所を移動せざるを得なかった「われ」が、これを遠因としてどんな場所でも「中心であり周縁の立場」を自認しているからのようにも見られます。写生の概念を引き継ぐと、短歌は「観察」する主体とか、短歌の題材の対象化を免れないと思うのですが、このような主体の曖昧さが提起するものは大きいと思いました。他者表象の際に『KOZA』の中で、あるいは屋良さんご自身が意識しておられることがありましたら、お聞かせください。
屋良 「中心であり周縁でもある立場」というご指摘をいただいてなるほどと思ったんですけれど、何となく自分の中で「周縁」という意識は、短歌を作る前からありました。それがどこから来ているかというと、子供のころから、自分は沖縄のひとなんだけれども、それ以前に日本人だ、といったような意識が強くて。それで、自分たちは沖縄人なんだ、という意識が強いひとに対する違和感というか、自分とは少し違うな、という感じがあったんですね。だから例えば甲子園の高校野球ですごくみんな盛り上がって沖縄の学校を応援するわけなんですけど、そこで一緒になって応援しないと「非県民」みたいな感じの雰囲気もあるわけです(笑)。そのことに子供ながらちょっと違和感があって、なんでこんなに沖縄としてまとまっていかないといけないんだろうと思っていました。紛れもなく自分はうちなんちゅだ、沖縄の人なんだと意識しているひとたちと一緒になれない自分がいて、もしかしたらそういう感覚が影響しているのかもしれないです。
沖縄尚学を応援せんと集う人 力道山を見るような目で(『KOZA』12)
もう一つは、沖縄か日本かというところだけではなく、自分はコザ、沖縄市で育っているので、やはり沖縄の中では那覇から見るとちょっと辺境というか、田舎の出であるという意識は子供の頃からありました。小学校5年生ぐらいから塾に通い始めたんですけど、その塾は沖縄市と那覇の両方に教室があって、そうすると比べられるんですよね、先生に。「那覇のやつらはこんな問題簡単に解けるぞ」などと言われて。つねに那覇の下に位置づけられてきたというか、那覇と比べて自分たちは劣っているんじゃないか、という意識は自分の中にありました。それに、沖縄市のコザというあたりは、1980年代、1990年代の半ばぐらいまではそれなりに賑やかだったイメージがあるんですけど、僕の中では1990年代後半から急に寂しく、落ち目になった感じがしたんです。じっさい沖縄市の中でも他の地域のほうが賑やかになっていきましたし。それで沖縄市内の高校に進学したとき、市内の他の地域や他の市町村から来た同級生たちに「どこから来た?」と聞かれて、コザ中学校、と応えると、あんな落ちぶれた街から来たんだね、といった感じのことを言ってくるひともいたんです。そういうことが積み重なって、自分はメインじゃない場所、辺境にいたという意識がずっとあったような気がします。

そういう感覚があったので、短歌を始めて短歌の雑誌を見ていて、沖縄の歌人の歌が載っていて、それに対して中央の歌人が批評していて、というのを見た時に、沖縄の歌といっても、これは那覇の歌だよね、という感じがして。那覇やその周りで活動している歌人の作品が「沖縄の歌」として掲載され、批評されている感じがしたんです。自分が生まれ育ったところは「沖縄」に入れられていないんじゃないか、という感じがしたんですね。だからコザの自分の感覚にもとづく歌、自分の周りのひとたちのことを詠んだ歌を作っていきたいと思ったんです。
他者表象という点で最近思うこともそのこととかかわります。誰かを歌で詠むというとき、それぞれのひとの立場とか、それぞれのひとたちの歩みをできるだけ想像できたらいいな、と思います。いろいろなひとに目を向けたい。「これが沖縄だ」という感じでまとめられないようなひとたちとか。そこからこぼれ落ちてしまうようなところに目を向けられたらいいな、と考えています。
実践としての「無知」
――「沖縄/日本」という関係もあるけれど、沖縄内部での中心/周縁という感じもある、という話が出ましたが、それは戦争表象の問題ともかかわっているように感じました。先ほどの「空」についての問いかけで「鳥」が出てきましたが、この「鳥」は戦闘機でもあるわけで、だから鳥を描くことは戦闘機を描くことと重なっていく。洞窟の話もガマがイメージされているのかな、と思うところがありました。でもそれは、沖縄との関係でいうと、どちらかと言えば使いやすい戦争の表象ですよね。ですがこの歌集には、「戦争非表象」というモチーフもあるような気がしているんです。それが沖縄/日本、沖縄内部の中心/周縁が混ざり合いながら、「戦争を避ける」という描き方につながっているのかな、と。『KOZA』の最初の作品、「無知こそが無傷の秘訣たる島にわれは戦もアメリカ世も知らず」で書き込まれたのは、「無知」、戦争を知らないことが傷つかないための方法だということですよね。沖縄戦を知らなければその問題で傷つかない、その後のアメリカの占領も気にかけなくてよい。だから「無知」であることが傷つかないための方法になる。でも、知っているんですよね。知っているからこそ「無知」たろうとする。とても実践的な「無知」だと思います。この「無知」を実践すると、「戦争非表象」の歌になるという気がしていて。13ページの「足早に母は過ぎ行く具志頭村立歴史民俗資料館戦争コーナー」。これも同じだと思うんです。資料館に行くと、この「母」は、昔の壺とかは見られる。ああこれで魚を釣っていたんだ、とか。でも戦争のコーナーになってくると、避けたい、見ないで済ませたい、「無知」で済ませたいということが出てくる。それがこの歌集のとても重要なテーマではないかという気がします。かりにいま申し上げたような戦争表象と「戦争非表象」とが分けられるとして、屋良さんの中で、どのような意識で戦争を描いたり、描かなかったりしようとしているのかというあたりをうかがえればと思います。
無知こそが無傷の秘訣たる島にわれは戦もアメリカ世も知らず(『KOZA』11)
足早に母は過ぎ行く具志頭村立歴史民俗資料館戦争コーナー(『KOZA』13)
屋良 「無知」といえば、東京に出て大学で知り合ったひととか友だちから沖縄のことをいろいろ聞かれて、自分は沖縄のことを意外と知らなかった、その意味で「無知」を意識したというところはあります。
戦争の歌を作るときは、自分の中ではそれなりに勉強をしないと詠めないという意識はあって、『KOZA』で言うと「戦争責任の矢」という2011年の連作4では「集団自決」に関する研究とか本をたくさん読んだり、この問題で積極的に発言なさっていた詩人の星雅彦5さんとお会いしてお話をうかがったり、という上で作ったという感じです。だから戦争の歌を作るまでは準備期間というか、けっこう勉強します。準備がないと作れないです。
雲上へ放った戦争責任の矢が落ちてきて止まる中空(『KOZA』85)
プルタブを引く一瞬の指先の惑い 自決を論じて後の(『KOZA』85)
議論して酔うて眠ればまなうらの闇は鍾乳洞につながる(『KOZA』86)
――先ほどの身近なひとを詠んだ歌を作ることを心がけているというお話とつなげると、いまの戦争の問題で、まわりのひとたちが「戦争を避けたい」「見ないで済ませたい」というひとがいたとして、そのようなひとたちを描くときに、屋良さんの中ではどんな工夫があるのでしょうか。
屋良 どうでしょうか……。まあ描き方は多分変わらないと思うんですけれど、たぶん客観的にと言いますか、それに対する評価はあまり入れないかもしれませんね。例えば歌集の冒頭のほうの歌でいうと、「郷土史にふれることなき妹はへそ出したままクラブに通う」という作品ではちょっと批評めいた感じが出ていますけど、でも、「だからこんなことじゃだめなんだ」とまではちょっと言えないのかな、と。そんな描き方になるんだと思います。
郷土史にふれることなき妹はへそ出したままクラブに通う(『KOZA』13)
――なるべく客観的に観察者として捉えていく中で、その捉える対象それ自体に批評性が生まれているところもあると思います。「「ナイチャーとは結婚するな」妹に相撲を見つつ祖父が言うなり」という作がありますが、ここでも祖父は「ナイチャーとは結婚するな」と言いながら「相撲」を見ているわけですよね。歴史意識とか、アイデンティティの意識が世代間で異なるあらわれ方をしていることが読んでいてスッと入って来る感じがしました。「沖縄の心を持てと諭されて半分開ける助手席の窓」も同様ですよね。同じような観察者の視線は、「反基地の集会にはためく幟「増税反対」「原発反対」」という作品にも出ているのではないか。「反基地」の運動の現場を見たとき、そこにあるのはリベラルの全国的なイシューを掲げた旗であったと。このあたりに屋良さんの中心と周縁の間での揺らぎというか、たえず一義的な立場では示さない、観察という形での批評性があると思うのですが。
「ナイチャーとは結婚するな」妹に相撲を見つつ祖父が言うなり(『KOZA』92)
沖縄の心を持てと諭されて半分開ける助手席の窓(『KOZA』93)
反基地の集会にはためく幟「増税反対」「原発反対」(『KOZA』147)
屋良 私の歌に対して、沖縄の上の世代の歌人や評論家から「賛成か反対かを言わないことは賛成と同じなんだ」と言われることもあります。ただ、こういうスタンスでの歌になっているのは、これまでの上の世代の沖縄の歌は「戦争の悲惨さ」「平和の尊さ」「基地反対」といったことをハッキリ詠む歌が多いんですね。それはもちろん大事なことと思うのですが、一方であまりにもストレート過ぎるがゆえに、沖縄の外の歌人たちにうまく届いていないような気がするんです。私が歌を始めて何年か経ったぐらいのとき、沖縄の歌人の歌集に対して『短歌研究』に批評が載ったのですが、そこでは「沖縄の歌を読むと責められているような感じがして、こちらから何も言えなくなる」といったようなことが書かれていたことが印象に残っていて。自分が何かを声高に言うよりできるだけ客観的に詠みたいというのは、そういうところから来ているんじゃないかと思います。
もし沖縄の上の世代の歌人と私との間で違いがあるとすれば、上の世代のひとたちは「沖縄の現状を本土に訴える」という意識が強くある。私の場合意識しているのは、さきほどの那覇と沖縄市の関係の話ではないですが、こういう沖縄もあるよというのを沖縄のひとたちに伝えたいというか。もちろん沖縄以外のひとたちにも沖縄のことを知ってもらいたい、という思いもありつつ、沖縄のひとたちに向けて「こういう歌い方はどうだろう」と示したいという部分もあります。その両方に訴えるというか、届けたいという思いで書いているので、そういう意味では明確に一つの立場を示せないところはあるかも知れません。
――語ること、語らないことという点についてもうかがわせてください。『KOZA』はとても理性的抑制的に、使う言葉をシビアに取捨選択している歌集だという印象を持ちました。そこでうかがいたいのは、屋良さんが参加されている同人誌『滸』の創刊号に発表されたエッセイ6では、「ないちゃー」ということば、沖縄のことばをこういうときは使わない、というところを決めて書いているという一節がありました。そのような意識を前提に、他者のことば、他者が使う沖縄のことばを歌に組み込むという作業を『KOZA』ではなさっていると思うのですが、さきほどの読者に対する意識という点でも、この歌集の中で意識的に使ったことば、逆に使わなかった、使えなかったことばがあれば、ぜひうかがいたいです。
屋良 これからどうなっていくか分からないですけど、『KOZA』の歌を作っていたときの感覚としては、なるべく自分がふだん使うことばを使おうとしていました。沖縄のことばに関してもですね。例えば「てぃだ」っていう言葉があって、太陽のことですが、「てぃだ」なんてふだん僕は言わないので、それを短歌で使うのは自分の中ではちょっと嫌だなというのはあります。使ったことはあるんですけど、やっぱり歌集には入れなかったですね。この歌集の中で沖縄のことばはいくつか出てくるんですが、「しまんちゅ」はギリギリ使ってもいいかなと思ったのですが、それ以外の「かめーかめー」であれば、そういう「嫗」、おばあのことばとして出したり、他者のことばとして、祖父だったりとか、他の沖縄のひとだったりが発するような形で使っています。例えば88ページに「(ウチテシヤ)ハイビスカスと青い海(ヘニコソシナ)めんそーれ沖縄」という歌がありますが、「めんそーれ」という言葉も歌では使いたくないんですよ。自分が使わないから。だからこれは「自分の言葉ではないもの」として使っている感覚ですね。「わわわYわわうとわるさわわぬYわわたつわくるわわさりわY」の歌も「うとぅるさぬ」ということばが出てきますけど、「うとぅるさぬ」も僕は使わない。そのようなことばを使うためにはこうした表現でなければならなかった、ということです。あるいは「ぬんでぃがぬんでぃが」という連作7の「ぬんでぃが」は「何を言ってるの?」と相手に聞き直すようなニュアンスのことばですが、ここではあくまでオノマトペとして使ってますね。
放課後の外階段の告白をぬんでぃがぬんでぃが米軍機ゆく(『KOZA』113)
――短歌という形式についてもうかがいたいです。『KOZA』に収められたのは2005年から2016年までの作品ですが、おそらくこの歌集を編むことがご自身の作家活動を振り返ることでもあったと思うんです。ご自身の「日本」「日本人」に対する意識と、周囲の「沖縄観」と向き合いながら作品を作ってこられた過程で、5・7・5・7・7という定型への意識に何か変化のようなものはあったのでしょうか。『KOZA』には「句跨がり」8や「句割れ」9といった技法や、空白の使い方など、形式をわざと崩していくような作品も収められていますよね。
屋良 どうですかね。わりと「句跨がり」は好きなんですよ。穂村弘10さんの作品が好きなので、その影響があるんだろうなと思います。その意味では、「句跨がり」のリズムというのは、短歌を作り始めの頃に穂村さんの歌と出会って自然と身についていったように思います。もともと自然に使っていた「句跨がり」を、いつからか歌の意味に合わせて意識して使うようになったので、定型に対する意識が変わってきているといえば変わってきているかもしれません。ただ、それとは別に、「琉歌」11への憧れはあります。以前は8・8・8・6の「琉歌」形式への憧れはなかったんですが、いまは作ることができたらいいかもな、という気持ちがあります。ただ、やはり短歌が好きであることは変わらないので、短歌を作り続けています。
――ご自身の中で、短歌のリズムと琉歌のリズムはどう違うと感じておられますか。
屋良 一番違うのは、琉歌は琉球語で詠むのが基本と思いますが、僕はそれができない。琉球語ができないから、そのリズムに乗り切れないというのはあります。琉球語ができる人だったらもしかしたら綺麗にリズムがわかるのかもしれないですけど、だからリズムの影響は分からないです。だからどうしても5・7・5・7・7の方がいいな、となってしまうのですが。147ページの「賛成の声も 反対の声も 投票前夜の 雨が濡らす」という作品だけ8・8・8・6のリズムになっているのですが、このあたりに琉歌への憧れが出ているかも知れないです。
賛成の声も 反対の声も 投票前夜の 雨が濡らす(『KOZA』147)
「大きな沖縄」と「小さな沖縄」、さらにその先へ
――いまのことばの問題ですが、『KOZA』は基本的に定型を守ることばが多く、その中に沖縄のことばが織り込まれている印象を与える一方で、それらのことばを受け取る側を多面的に揺らがせるような使い方がされているように思います。例えば、「山形へ自費留学をせし父の「ヤマト」と呼ぶは異国の名前」、「会うたびに「ロンタイノーシー」と笑みかける祖父母はKOZAの商人なりき」など、沖縄方言に限定しない「沖縄のことば」はときおり作り手と対象の隔絶を表すものとなりますし、作り手もまた、「(ウチテシヤ)ハイビスカスと青い海(ヘニコソシナ)めんそーれ沖縄」、「わわわYわわうとわるさわわぬYわわたつわくるわわさりわY」のように、スローガン「うちてしやまん」、軍歌『海ゆかば』と言った戦時・日本のことばを脱臼させたり沖縄のことば(とそれが侵犯される風景)への理解を読み手に強いたりすることで、文語定型や「短歌のことば」を内側から問い直し、読み手に短歌とは何かを自問させるかたちにもなっている。そもそも短歌は、日本の戦争に歴史的に加担してきたジャンルでもあります。その形式を引き受けつつ、なお沖縄のことばを書き込んでいくという表現のあり方についてお考えを聞かせてください。
山形へ自費留学をせし父の「ヤマト」と呼ぶは異国の名前(『KOZA』11)
会うたびに「ロンタイノーシー」と笑みあける祖父母はKOZAの商人なりき(『KOZA』68)
(ウチテシヤ)ハイビスカスと青い海(ヘニコソシナ)めんそーれ沖縄(『KOZA』88)
わわわYわわうとわるさわわぬYわわたつわくるわわさりわY(『KOZA』137)
屋良 そうですね……ことばは、そうですね……。答えになっていないと思うんですが、「ロンタイノーシー」などもそうなんですが、沖縄の人たち、上の世代が使うことばがちょっと独特だなというか。「ロンタイノーシー」も、英語っぽい言い方、沖縄のひとは英語じゃなくて「いぇい語」って言ったりしますけど、まさに「いぇい語」なんですよね。亡くなった祖父母やコザのひとたちを見ていると、使っていることばがそのひとの背景と、人生とかかわっているなと強く思います。だからこの歌集では父は「やまと」と言っていて、祖父は「ないちゃー」ということばを使う。まさにそのひとが使うことばで、そのひとの息づかいが感じられる、というか。
さきほどのおこたえと重複してしまうかもしれないのですが、いままでの沖縄の短歌は、訴えたい「沖縄」というのがはっきりあったと思うんです。でもそれは、すごく「大きな沖縄」だと思うんですよね。たとえば上の世代の歌人で、比嘉美智子12さんに「日本の足指ほどの沖縄に」13なぜ基地が多いんだという作品があります(「ニッポンの足指ほどの沖縄に戦争の枷の基地のみ多し」『一天四海』)。平山良明14さんは「断たれたるトカゲのしっぽのように生くる沖縄島の歴史をいたむ」(『あけもどろの島』)と、沖縄を「トカゲのしっぽ」と表現した。松村由利子15さんは県外から石垣島に移住されてきた方ですが、「時に応じて断ち落とされるパンの耳沖縄という耳の焦げ色」16という作品があります(『耳ふたひら』)。同じく県外からの移住者で、私の妻でもありますが、佐藤モニカ17は「次々と仲間に鞄持たされて途方に暮るる生徒 沖縄」18と表現した(『夏の領域』)。みなさんそれぞれの捉え方で沖縄を表現しているのですが、それは基本的には「大きな沖縄」だと思うんです。
確かに大きな視野で見たとき、沖縄と沖縄県外、本土と言われる地域の間にはそこで表現されたような関係はあります。いずれも良い歌で、沖縄を詠んだ歌として沖縄の外の人たちから評価されるのも分かります。ですがその次の段階として、「小さな沖縄」を詠むのがこれからの沖縄の短歌であってほしい、という思いというか、そういう可能性もあると思うんです。この『KOZA』もそうですが、それぞれの沖縄を詠んでいけたらいいな、と。
いままで沖縄の歌というと、そこに登場するのは、どうしても沖縄で生まれ育ったひと、沖縄出身のひとが中心でしたが、でも例えば県外出身者のことがもっと歌に詠まれていい。『KOZA』にはアメリカ兵も出て来ますが、アメリカ兵や、あるいはアメリカ兵と地元のひとの間に生まれたいわゆる「ハーフ」と呼ばれるひとたちや、今になって思うとよくない言葉だけれど、子どもの頃はけっこう耳にした、いわゆる「ピナー」「フィリピナー」と呼ばれるひとたちのことも同様です。沖縄にはいろいろなひとたちがいるはずなのに、そういうひとたちは短歌ではあまり描かれてこなかった気がするんですね。それが沖縄の短歌の課題ではないかな、と。言い方が難しいのですが、とくに沖縄の短歌ではどうしても「上品さ」が無視できないところがあるので、例えば「暴力」についても、もちろん告発として描くことはあるけれど、「暴力」の内実についてはあまり描かれてこなかった。それは沖縄文学の枠組みでいえば、小説との違いだと思います。目取真俊さんの『虹の鳥』19のような暴力の描き方が沖縄の短歌にあっていいはずです。崎山多美さんのように、共同体の周縁にいるようなひとたちを短歌で描くことがもっとあっていいとも思います。これからの沖縄短歌の可能性としては、それぞれの「小さな沖縄」というか、周囲にもっと目を凝らすことで見えてくるいろいろな沖縄、いろいろな沖縄のひとたちを描いていけたら、もっと沖縄の短歌も豊かになると思います。

――お聞きしていて、映像ジャーナリズムの世界での問いとも相似形を成しているという気がします。僕も沖縄戦とか、戦後の「アメリカ世」を取り上げたストレートに「熱い」球を本土に向かって投げることをやってきたつもりですが、それだともう受け取ってもらえない。「生々しくて熱いものはもうイヤです」という受け止めが広がっている感じがします。映画『宝島』にしても、エンターテインメントであっても、本土の側は、沖縄にたいへん申し訳ないことをしたことは知っているけれど見たくない、といったような反応があったのではないか。どうやって描いていけばいま届けたいひとに届くのかみんなが苦慮している中で、屋良さんも、いわゆる従来型のことばとは違う表現を模索されているんだ、と感じました。
屋良 今回歌集を出して意外に感じたことのひとつは、2005年に作った最初の「畿外を語る貴族のごとく」という連作20から引用していただくことが多いんですね。でも、それは20年前に作った歌なんです。20年経ったのにまだ新鮮だと受け取ってもらえるのは、沖縄をめぐる状況が変わっていない、ということなのでしょうが……。
スタバにて辺野古の話題にふとなりぬ畿外を語る貴族のごとく(『KOZA』14)
この歌集は2016年の作品までで区切っています。ほんとうを言えば2017年、18年ぐらいで歌集を出せたらよかったかな、という思いもあります。大学の仕事とかでいろいろ忙しくなってしまったのでこのタイミングになったのですが、もっと早く出していれば、もっと読んでいただけたのではないかと。歌壇の中のことですが、沖縄に対する歌壇の注目のピークは2017年ぐらい、辺野古の工事が本格的に始まるぐらいの頃だったと思うんです。その時期に比べると、沖縄の歌を取り上げたり沖縄を論じたりする熱量のようなものがいまは以前ほどではないかもしれない。だから、沖縄の歌を読んでほしい、読んでもらえるぎりぎりの時期かもしれないという思いで第一歌集として『KOZA』を出したわけですが、この後、2冊目3冊目となったとき、読者をどう想定できるのかは迷うところです。同じような詠み方、同じような編集の仕方だったら読まれなくなっていくのかな、と漠然と感じているところがあります。
でもそれは沖縄を発信する側の責任でもあって、かりに戦争や基地をテーマとして作品を作るにしても、届けるためには、もっと短歌として「うまい」というか、端正な歌を作っていかないと届かないのでは、という気はしますね。多分2017年ぐらいまでは、沖縄から思いを届けようとしている歌だったら、その心が受け入れられたと思うんですけれど、それから随分時間も経って、テーマとか心だけではなかなか届かないのかな、と。それこそ散文的ではない、歌として自立して完成度が高くないと届かないのではないか、と。最近の選挙結果など見ていても、従来の沖縄のことばでは沖縄の内にも外にも届きづらくなってきているように思うんです。
――ひとりの読み手として考えるんですが、屋良さんは「大きな沖縄」を日本に向けて発信するというより、「小さな沖縄」、沖縄の中の差異に焦点を当てている。とはいえ、この歌集が沖縄の内に閉じこもっているかというと、そうでもないような気がするんです。なぜかというと、さきほど話題になった「どれくらい食べれば傷を癒せるか「食べなさい、食べなさい」と迫る嫗の」という歌なんですが、この歌を最初に読んだとき、マーシャル諸島の詩人のキャシー・ジェトニル=キシナー21の作品を思い出しました。みすず書房から『開かれたかご』という翻訳が出たのですが、その中に「釣り針にかかって」という詩があるんですね。これは、マーシャル諸島がアジア太平洋戦争中に日本軍の占領下で食糧を全部供出させられて、戦後生き延びたマーシャルのひとたちが、戦後アメリカから大量の物資を受け取るわけです。天国から、神様からの贈り物だ、という感じで。でも、マーシャルのひとたちが食べ慣れていないスパムとかアメリカの食べ物をどんどん食べるので、からだを壊してしまう。いわゆる「生活習慣病」ですよね。だから子供たちは「お父ちゃん食べるのやめてくれ」というのだけれど、戦争中の「飢え」の記憶があるから、食べることを止められない。
どれくらい食べれば傷を癒せるか「食べなさい、食べなさい」と迫る媼の(『KOZA』12)
屋良さんの歌で、「かめーかめー」と勧めてくるおばあにも恐らく「飢え」の経験がある。そうした経験を背負っていることを知ってもらいたいし、そうした経験は次の世代にしてもらいたくないと思ってもいるからそうしたことばが出てくる。また、受け取る側にしても、これを自分が食べれば「嫗」の傷が癒やせるかもしれない、でもどれぐらい食べればよいのか、それでほんとうに傷を癒やせるのか、という思いもある。これはトラウマの話でいえば他者の傷を自分が引き取っていくことの戸惑いでもあるわけです。そこから連想を拡げれば、それこそ細かい、「小さな沖縄」のことを書いていくことで、まったく違う場所で同じような経験をしたひとと不意に結びついてしまう。「大きな沖縄」の「戦争反対」「基地反対」ももちろんわれわれも大事だと思うんですが、それだけだと逆に閉ざされてしまうのかもしれない。でも、「小さな沖縄」、小さな光景を詠むことが逆に、別の地域、別の戦場の経験、戦争の経験と繋がっていく可能性があるのではないかと思ったんです。
屋良 ありがとうございます。そういう可能性があるのだとしたらうれしいですね。沖縄を詠んだり、沖縄の短歌に関する評論を書いたりしているとどうしても枠組みが狭くなってしまうという葛藤がずっとあったので、そうではない可能性があるとしたら、すごく励みになります。【了】
- 1898年2月、佐佐木信綱主宰のもとで創刊された短歌雑誌。のちに竹柏会の機関誌として位置づけられ、「ひろく、深く、おのがじしに」を理念に掲げ、近代・現代短歌史において多くの歌人を輩出した。 ↩︎
- 歌人。京都府出身。早稲田大学第一文学部卒業後、NHKディレクターとして文化・教育番組の制作に従事。番組制作を通じて佐佐木幸綱と出会い、1999年「心の花」に入会。2005年「麦と砲弾」で第48回短歌研究新人賞、2008年第1歌集『亡羊』で第52回現代歌人協会賞を受賞。その他の歌集に『男歌男』(前川佐美雄賞)、『花』(若山牧水賞)など。 ↩︎
- 『KOZA』には2005年3月から2016年11月までの既発表作品と、同時期の未発表作の計380首がおおむね編年順で収められている。 ↩︎
- 初出は『短歌往来』2011年4月号。「沖縄タイムス」2011年8月16日。 ↩︎
- 詩人。沖縄県那覇市出身。1964年より金子光晴に師事、詩誌「あいなめ」に参加。1985年に第1詩集『砂漠の水』を上梓。詩作の傍ら、沖縄県文化協会会長、国立劇場おきなわ理事、浦添市文化協会会長などを歴任。総合文芸誌『うらそえ文藝』の創刊編集長も務める。 ↩︎
- 屋良健一郎「創刊に寄せて」(『滸』2019年)。同人誌『滸』は安里琉太、酢橘とおる、髙良真実、西原裕美、屋良健一郎ら「沖縄に問いを持つ」5名の表現者によって2019年に創刊された。 ↩︎
- 初出は『文化の窓』第31号(2009年)、『詩客』2012年8月3日。 ↩︎
- 語句の意味内容や文法的区切りが、定型(5・7・5・7・7)の句末で終わらず、次の句へと継続すること。 ↩︎
- 5音または7音の一句の途中に、句点、終止形、切れ字などが置かれ、意味やリズムの断絶が生じること。 ↩︎
- 歌人。北海道出身。1988年「かばん」に入会。1990年、第1歌集『シンジケート』を刊行し、現代短歌における「ニューウェーブ」運動の旗手として注目を集める。2008年『短歌の友人』で第19回伊藤整文学賞、2018年第4歌集『水中翼船炎上中』で第23回若山牧水賞を受賞。その他の歌集に『ドライ ドライ アイス』『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』など。 ↩︎
- 沖縄・奄美地方に伝わる定型詩。8・8・8・6の音数律を基本とする4句30音の詩型。三線の伴奏を伴う歌謡として発達し、組踊や琉球舞踊の詞章としても用いられる。 ↩︎
- 歌人。沖縄県那覇市出身。1955年「アララギ」(土屋文明選)に入会。「地中海」「コスモス」「くぐい」を経て、1988年「未来」に入会。1991年から2018年まで『沖縄タイムス』の「タイムス歌壇」選者を務める。歌集に、第21回沖縄タイムス芸術選奨大賞を受賞した『青き地球:歌集』のほか、『月桃のしろき花びら』『一天四海』『宇流麻の海』など。 ↩︎
- 初出は『未来』1995年12月号。 ↩︎
- 歌人。沖縄県国頭郡今帰仁村出身。1972年の沖縄返還の年に第1歌集『あけもどろの島』を刊行。主な歌集に『あけもどろの島』『時を識る』など。 ↩︎
- 歌人、ジャーナリスト。福岡県出身。1990年に「かりん」に入会し馬場あき子に師事。歌集に『鳥女』『大女伝説』『光のアラベスク』など。著書に『31文字のなかの科学』『ジャーナリスト与謝野晶子』ほか。 ↩︎
- 歌集『耳ふたひら』(2015年、書肆侃侃房)所収。 ↩︎
- 歌人。千葉県出身。1997年、竹柏会「心の花」に入会し佐佐木幸綱に師事。2011年、連作「マジックアワー」で第22回歌壇賞を受賞。2017年に上梓した第1歌集『夏の領域』により、第62回現代歌人協会賞および第24回日本歌人クラブ新人賞を受賞。 ↩︎
- 初出は『短歌』2011年1月号(第22回歌壇賞受賞作「マジックアワー」)。歌集『夏の領域』(本阿弥書店、2017年)所収。 ↩︎
- 目取真俊『虹の鳥』(影書房、2006年6月)。 ↩︎
- 初出は『心の花』2005年11月号。 ↩︎
- 詩人、環境活動家。マーシャル諸島共和国出身。マーシャル諸島を拠点に、環境破壊や被曝の歴史をテーマとした詩作・パフォーマンスを行う。同国政府の気候変動特使を務めるほか、NGO「ジョージクム」を主宰。邦訳詩集に『開かれたかご―マーシャル諸島の浜辺から』がある。 ↩︎
2026年3月8日(日)13:30~17:00 琉球大学千原キャンパスにて
[聞き手]樫本由貴、川口隆行、北﨑花那子、副田賢二、中村隆之
[参加者]呉世宗、五味渕典嗣、李文茹、劉榕シン、渡辺考
[構成・注釈]五味渕典嗣、北﨑花那子
(2026年5月4日公開・5月10日修整)