• このコーナーでは、本プロジェクトにかかわるイベントの記録、メンバーの研究エッセイを掲載しています。今回は2025年10月に早稲田大学で行った『島から島へ』上映会+終了後のトークセッションの記録を二人の学生さんに書いてもらいました。
  • 戦争の記憶と「私」―語り継ぐ主体として―(河内優希)
  • 『島から島へ』鑑賞記(草栁颯希)

戦争の記憶と「私」―語り継ぐ主体として―:廖克發監督『島から島へ』上映会・廖監督、藍適齊氏トークセッション感想レポート

河内 優希  

 被害と加害の両面に目を向けながら、その記憶を語り継ぎ、受け継いでいく。廖監督の問題意識が映画を通して感じられ、とても刺激的な経験だった。

 そんな刺激的な体験の中でも、上映会から少し時間が経った今も私の心をつかんで離さないのは、広島が持つ被害と加害の二面性である。

 日本に生まれ日本で育った私にとって、「戦争と広島」のキーワードで思い出されるのは専ら原子爆弾による被害であった。中国地方と九州地方出身の両親をもち幼少期を九州で過ごした私は、「原爆」という被害の体験を目にし耳にすることが多かった。そんな私にとって、広島の加害の側面は今まで目を向けたことのないものであった。広島に置かれていた第五師団や毒ガスを製造していた大久野島、そこから明らかになっていく広島の加害の事実はとても印象的だった。

 特に「毒ガス」というキーワードは私にとって無縁ではないものである。大久野島で製造された毒ガスについて調査をしながら、ふと自分が育った土地のことを思い出した。関東に移住してから私が育ったのは千葉県習志野市という土地だ。ここは、現在も陸上自衛隊の第一空挺団が駐屯する基地が置かれているが、以前は陸軍習志野学校が置かれていた土地であることがわかった。調査によると、陸軍習志野学校は戦争に使用する化学兵器等の実験や開発を行う施設だったようだ。

大久野島にて(撮影:五味渕典嗣。2014年の訪問時)

 驚いたことに陸軍習志野学校が置かれていた場所を地図上で確認すると、現在も私の実家が位置する場所まで占めていた。確かに、「毒ガス」というキーワードで私の習志野での生活を思い出してみると、「『毒ガス』が埋まっているから入ってはいけない」と言われていた土地があったことを思い出した。現在その土地は毒ガスの調査、撤去が済んだようで住宅街になっているが、まだ小学生だった当時は、その土地の隣に公園があったこともあり、ボールを何度も投げ込んでしまい何度も叱られたことを覚えている。

 原爆と大久野島に見られる広島の被害と加害の二面性、さらに習志野と「毒ガス」というキーワード。これらのことから私が感じているのは、「私自身も戦争の記憶を引き受け、語り継いでいく主体である」ということだ。祖父母さえもいわゆる戦後生まれである私にとって、戦争の記憶というものはどうしてもどこか遠いもの、近くに感じようとしても何か距離があるもの、そのように感じてきた部分はあった。しかし、『島から島へ』の鑑賞をきっかけに、被害と加害の二面性の存在を再認識したこと、私の生活の近くに存在する「毒ガス」の傷跡を発見したことで、自覚的に戦争の記憶を語り継いでいく主体としての「私」を見つけられた気がする。 

(早稲田大学大学院教育学研究科修士課程)


『島から島へ』鑑賞記

草栁 颯希  

 初めてこの映画を見た時、私は上映スタッフだったのでメモを取ることができずもどかしかった。だがそれで良かったのかもしれない。手元に記録を残すことを優先しては、今も頭に残るいくつかの印象的な場面が、他の場面に埋もれて記憶されてしまったかもしれないから。

 とはいえ、感想を書くにあたって強烈ながらも朧げなそれを基にするわけにはと先生にUSBをお借りし、見直しながらひたすらに字幕を書き起こして、改めて思った。この映画では多くの問いが投げかけられるが、繰り返される川と海のイメージが象徴するように、それらはあまりに重くて深い。底が見通せないほどに。

 母を日本兵に殺されたある女性は言う、

「日本の鬼畜兵は私の両親を殺した。彼らの子どもたちがここにいたら私は彼らを殺します。刺し殺します」

 虐殺を目にしたある男性は言う、

「殺していた人の中には華僑もいた。その人も仕方ない、殺すしかない、命令に従うしかない。その人は言ったよ、自分は台湾から連れて来られて兵になったのだと」

 ある男性は言葉にできず涙を流して口を閉ざした。

 一方で、日本軍の粛清を否定し、軍規の良さを挙げ、非道をでたらめと一蹴する元軍属で台湾人の方や、日本軍が町に出て女遊びをすることはなかったと言う、当時維持会に所属した父を持つ方もいる。通訳をした日本兵は優しく、粛清など聞いたことがないと言う元軍属の方は同時に「正常ではない兵士」が人々に「めちゃくちゃな事」をし、日本に抵抗する者はたとえ一般人でも殺されたと語る。

「後世の人や残された人に対して申し訳ないと思う?」
「考えたことがない」
「考えられない?」
「どうやって考えるんだ?戦争は殺し合いだよ。制御できない。殺すか殺されるか。自分が生き残ることしか考えていない」 

 死の鉄道の元作業員の方曰く、

「彼ら(日本兵)は私によくしてくれ 私に誇りを持たせてくれました」
私が日本語を話せなかったらとっくに死んでいたでしょう。

 通訳として日本軍のために働いた祖父を持つサイモンさんはこう語る。

「祖父が多くの人々を苦しめていたと聞いたことはある、でも…これは既に起きてしまったことです。ですよね?だからといって祖父のことを憎むことはできません。私の肉親ですから。具体的な証拠がありません。ですから…これは既に起きてしまった事。私はただ祈るだけです」

「過去の悪行をすべて切り離すのではなく、善い行いをする。そうすれば良い報いがあります。人々が口にするこれらの事を変えることはできません。歴史は既に起きてしまいました。せめて家族の罪悪を清めることができれば。これにより神の加護があることを願っています」

 いくつもの証言が時には些細に、時には真っ向から食い違う。だが、その食い違いも含めて知ること、知ろうとすること、これ以上目を背けないことが、あちらとこちらを繋ぐ一本の糸となり、絶望的なまでに深く見える溝を埋めてゆくことになりはしないか。

 現状、日本の学校でこうした加害の歴史を教えることはほとんどない、というのは実感としてある。それよりも被害の歴史――例えば原爆の投下がいかに非人道的な行為だったか、という授業を受けたのはよく覚えているのだけれど。高校生だった私はその凄惨さを想像してはアメリカに対する悲しみと憤りを覚えたものだが、それと同じくらいに理不尽で残酷な行いを日本もしていたのだと知っていたら、どんな感情を抱えていただろう。そもそも教科書だって全ての事実を「完璧に」「正確に」列挙しているわけではないのに、そこに掲載されることもない記憶をどうして我々が知り得るだろう。

 思い出したくもないだろう記憶をそれでも提供したり、声を拾い上げようとするような人々がいなければ(いなくなってしまえば)、彼らの声は瞬く間に覆われ消えていくに違いない。

「人は記憶を選択する 何を忘れ 何を記憶するかを選択する」

 マレー半島の虐殺と直接関わった第5師団第11連隊は広島出身者が多いことから広島師団とも呼ばれたが、広島のみならず日本には、東南アジアの犠牲者を悼む慰霊碑は一つもないそうだ。しかしユダヤ人虐殺を悼む場所は6カ所あり、その一つは広島に存在する。

 虐殺と戦争は分けて考える必要があるとした上で、東南アジアの虐殺現場と掘り起こされた遺骨の写真を見た館長は言う、

「私はこの歴史を知り、次の世代に、若い人たちに伝えなければならないと思います。人間はこんなにも残忍になりうるということを、ホロコーストや東南アジアの例から伝えなければなりません」

 第5師団第11連隊中尉であり、処刑された日本兵、橋本忠の甥である橋本和正さんはこう語る。

「自分の肉親が犯した罪、その責任を自分が負うというのは、ちょっと無理だろうと思います。私が責任を持つというのは無理だと思う。けど、そういう声を上げている人たちに、答えていくっていうのは自分にできるのかな」

 1968年に社会科地理の高校教師になり、生徒の歪んだアジア観を訂正できないかと考えていた高嶋伸欣さんは、2019年時点で45回目となる日本平和団に参加しており、今では80歳になる。

「なおさら こちらから 繰り返しお邪魔でしょうけど また聞かせてください」

「私たちは自分を戒める必要がある 人は簡単に邪悪に屈してしまうということを 私たちとつながりのある犠牲者を 哀悼するためには 同情だけでは不十分である」

 私を含め当事者以外の人々にとって忘却は容易い。細部を落として分かりやすい骨組みだけを残しそれだけを覚えていれば良いと手渡されたら、そのまま受け入れるのが一番簡単で、楽だ。考えることは本当に疲れるし、皆が信じているのと同じものを信じていれば、生活に大した支障はないと思考を先送りにして、薄れゆく記憶を都合がいいとばかりに放置していた結果が、この混沌とした世界なのではないか……

 コスパやタイパが重視されがちな今の時代に、それでも、確実な答えはなく、全容も知りえないと承知した上で、複雑さを複雑さとして受け止められる人が増えてほしいと思う。そして、自分もその一人になれたら、と。

(早稲田大学大学院教育学研究科修士課程)